冬雷 繋がりとは
遠田潤子さんの冬雷を読みました
結論から言うとめちゃくちゃ面白かったです
いやー何が面白いってね、信念が面白い
この信念ってのは本全体を通してのテーマということもできるし、主人公の信条ともいい変えれるし、はたまた奇妙な村の風習ともいえるし…
とにかくね、この主人公は正直なんですよ
本の中の表現を借りるなら誠実なんです
一般的には理不尽と片付けられるようなことにもね
例えば、主人公の代助は冬雷閣の当主である千田雄一郎に厳しく指導される場面が作中には何度もあるのですが、それを真摯に受け止める
決して泣き言を言わず、小さいはずなのにわがままを言わない。そして自分という存在がどうであるかを自分なりに結論を出し、こうあるべきという道を歩んで行くわけです
まあ、この物語の面白さはその後にあるのですが…それは皆さんの目で確かめていただくとして、ここでは自分のことを書きたいと思います
あ、興味ない人はここでブラウザ閉じてもらっていいですよー
繋がりとは
人と人って何をもってして繋がっているんだろう?って考えたんですね、この本を読んで
勿論、色々あると思うんです
血の繋がりとか、近所とか、友人とか
例えばネットでの繋がりとか普通に言いますよね?
なので、それも繋がりと言えると思うんです
でも僕が問題にしたいのは、なぜ繋がっているのか?なんです
血の繋がりは昔から大事にされてきたと思います
一対の血の繋がりを持った人同士の関係は親子とも呼べるし、親戚って血縁関係がある人 と言えますよね?(間違ってたらすみません)
もちろん、物理的に考えて切っても切れない関係ですよね、血縁関係って
端的に言えば分かりやすい
でも、その血の繋がりってどのくらい大事なの?って言われると、平成生まれ、21世紀育ちの僕はあまり大事だとは考えられません
なぜらなら、僕は繋がりの深さはその繋がりの複雑さ、難解さ、そして時間が決まると思うからです
愛を込めて育てましたとか言うじゃないですか、それってすごく素敵なことですよね
でもDNA鑑定したら違った、実は夫の妾の子だった、他の女の子供を私に育てさせやがってコノヤロー!みたいなのは世界仰天とかでよくみる話です
僕はこういうのをみるたびかならず思うことがありまして…そんなに生物学的な根拠が大事?って思うんです
僕にとって、大切っていう価値観はすごく大切なんですけど、(これは完全に『青い鳥』という小説に影響されています)本当に大切なことは、科学的に自分の子供であることを証明することではないですよね、日頃の恨みを晴らすきっかけでもないですよね、ましてや騙した旦那を咎めることでもないですよね
(少なくとも僕はそう思います)
まあその人にとってそれが大切ならそれでいいんですけど…でも、ぼくはそんな事よりも目の前の我が子を愛するって事がとっても大切だと思うんです
目の前の子供を愛する事ができれば、それは過去に愛した記憶を刻み込むことになりますし、今愛する事ができれば常に今を愛する人のために使えますし、未来ではその子が誰かに受け取った愛情を送るかもしれません
これって素敵だと思いませんか?
今のすぐ前は過去ですからね
過去は絶対に変えられないわけですが、絶対に変えられないならDNAより信憑性がありますよね
(蛇足ですが、DNAだって採る場所によっては違うこともありますし、科学は数学と違って永遠に不変の真理は証明できません。あくまで可能性が高いだけです)
だから僕は思うのです、血の繋がりがそんなに大事なのかよと
本当に大切なのはすぐに変えられる今であって、費やしてきた過去であって、無限の可能性のある未来なのではないかと
これらに本当の繋がりが詰まっているのだと僕は思います
養子をもらった母親は、我が子を作れない苦しみがあるからこそ血の繋がりを乗り越えて子を愛せるのだと思います
親友は、互いのことを何度も想い、互いを知り、互いを認め、互いに笑いあったからこそ親友なのだと思います
ときに、人は誰かを好きになるときは一目惚れなどという人間の直感によって恋に落ちてしまいますが、恋の魅力とはその難解さだと思います
繋がりのきっかけも深まりも、全て時間と複雑さと難解さをもってして、構成されたものなのではないでしょうか
そんなことを思った本でした
追記
論理の飛躍等で疑問がある方はコメントにどうぞ
僕も強く自覚していますが、頭にあるのでそれを吐き出さずに次のことは飛ばしてしまいます
あと、横道にすぐそれますが、悪しからず